悪い人を弁護する必要性
7月24日独り言


書いたレポート掲載第2段と行きますか。今日載せるのは法律実務論と言う科目のレポートです。この科目、弁護士の先生が順番に来て、自分の受け持った事件のことなどを話してくれる授業で結構面白かったです。大学はいって一番面白かったしためになった授業かもしれません。

まあ、講義内容自体は、先生の考え方だけですので、違う立場にたっている考え方をしているばあい、若干の違和感があることも事実でしたけどね。レポートはもちろん、先生の主旨に賛同した書き方をしています。(爆)このレポートなんかはもろそうですね。僕は被害者を重視する考え方ももう少し入ってもいいのではないかなと思います。

レポートの課題内容は次の通りです。

「『悪い人』を弁護士が弁護する必要性について以下の3点に留意し論じよ。@『悪い人』というのはどこで、誰が、いつ決めるのか。Aその決め方にはどのような原則が働くか。B仮に、『悪い人』だということがわかったとすると弁護をする必要はないということになるのでしょうか。」


「悪い人を弁護する必要性」

 弁護士は世間一般において「悪い人」を弁護する人と世間一般に捉えられている。弁護士が「悪い人」を弁護する必要性は一体どこにあるのであろうか。

 まず考えておきたいのが、「悪い人」という言葉そのものについてである。「悪い人」はいつ定まるのであろうか。一般的に考えられているのは警察官に逮捕された時や、検察官に起訴された時に「悪い人」となるという考え方ではないだろうか。逮捕された人や、起訴された人はマスコミによって、判決が出る前に「悪い人」として報道されている。しかし、その犯罪の背景はわかっていない場合も多く、正当防衛の構成要件に該当することや、情状酌量の余地があることも考えられることから、必ずしも「悪い人」とは言えないのではないといえる。従って、「悪い人」と決定される時というのは裁判官によって判決が出され、それが確定した時というべきである。判決確定前にすでに「悪い人」として報じられるマスコミの報道については犯罪者側の人権には欠けている点が多いといえる。この「悪い人」を裁判前の時点で決定してしまうことそのものが論理の逆転であるといえるだろう。

 判決確定で「悪い人」となると考えるのであるから、判決までの過程には全ての人に対して適正手続が要求される。本来は、適正な手続で得られた証拠だけが裁判でも採用されるべきであるのだが、歴史上、特に警察官の捜査においては、多くの違法な証拠収集がなされてきた。このような違法な証拠収集を許せば、国民の生活を侵害する恐れがある。犯人の不利益のみならず、国民の不利益につながる恐れがあると言える。これら違法情報収集等に関する対抗し、適正手続の確保のために、弁護士の存在が必要といえるであろう。「悪い人」の弁護をすることが結局は国民の利益につながるのである。

 また、「悪い人」と決定するにあたっての立証技術的な背景に着目してみると、有罪証明と無罪証明の差が浮き上がる。有罪の証明は一般的にやったことを証明するものであり、これに対し、無罪の証明というのはやっていないことを証明しなくてはならない。やったことを証明するのと比べ、やっていないことを証明することは非常に難しいことは容易に理解できるであろう。この点から無罪の証明は「悪魔の証明」といわれるのである。従って、裁判の判断には、適正手続内で「合理的な疑いを容れない程度の証明」が必要となる。つまり、推定無罪の原則が必要である。推定無罪の根拠としては他にもいくつかの背景がある。歴史的・思想的な背景として、「十人の犯人を逃しても、一人の無辜を生み出さない」という考え方が形成されてきたことや、理念的背景として「裁判は必ずしも真実を発見できるものではない」という考え方があることも「疑わしきは罰せず」という無罪推定につながってくる。このように、様々な背景から見て、無罪推定は非常に重要な原則なのであるが、「日本の警察は優秀」、「起訴された者の有罪率が99.8%」などという背景から、有罪推定をされることが現実には起こっている。弁護士にはこの有罪推定への歯止めとなる役割もあると言えるだろう。

 では、もし、仮に「悪い人」ということが分かっている場合には弁護する必要性はなくなるのであろうか。この点、まず、悪い人であっても「盗人にも三分の理」といわれるように何らかの理由があり、処罰にも適正な裁量が求められるべきである。この適正処罰の獲得のためにも弁護士は働くべきであろう。適正処罰では「立ち直れるかどうか。」という基準に照らし合わせた判断が必要と言える。「立ち直る可能性が高い」と言う場合には、改善・改心チャンスを与えるべきではないだろうか。このために「悪い人」が立ち直る環境整備をしていくということも弁護士に求められているということができる。これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に見られる考え方に似ている部分がある。少年は成人と比べれば、「立ち直れる可能性が高い」と言えるから、改善・改心のチャンスを多く与えるべきであり、逆に回復可能性が低い場合には応報刑中心となるようにする必要がある。そして、その判断には適正手続きが必要であるし、上で述べた様に、たとえ「悪い人」と分かっていても適正な手続で行わなければ国民に不利益を与える恐れがあることから、適正手続保護のために弁護士は必要であると言えるだろう。このような理由から、たとえ「悪い人」と分かっていても弁護士には「悪い人」を弁護する必要性があるといえる。

 現在、被害者の立場を中心とした報道が非常に多くなり、国民世論も応報刑を望んでいる傾向が社会には見られる。確かに、被害者の立場を考慮することは非常に重要であり、考えていかなければいけない問題であろう。しかし、それに比重が置かれるあまり、適正手続が守られなくなるようなことや、応報刑中心の法律となることに対しては歯止めが必要であると言えるだろう。弁護士が「悪い人」を弁護することにはそのようなもの含め、様々な必要性があるといえるだろう。

以上



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